民間放送局とテレビ放送の誕生-そして実演家の権利の発展
企画部広報課 君塚陽介
民間放送局とテレビ放送の誕生
1950(昭和25)年4月に成立した放送法が、日本放送協会(NHK)と民間放送局との二元体制を採る理由について、次のように説明されている。「わが国の放送事業の事業形態を、全国津々浦々に至るまであまねく放送を聴取できるように放送設備を施設しまして、全国民の要望を満たすような放送番組を放送する任務を持ちます国民的な公共的な放送企業体と、個人の創意とくふうとにより自由闊達に放送文化を建設高揚する自由な事業としての文化放送企業体、いわゆる一般放送局または民間放送局というものでありますが、それとの二本建としまして、おのおのその長所を発揮するとともに、互いに他を啓蒙し、おのおのその欠点を補い、放送により国民が十分福祉を享受できるようにはかつているのでございます」 ※2。
放送法案の動きに合わせて、民間放送局の設立に向けた動きも全国に広まる。1950(昭和25)年12月、当時の電波管理、放送を担当する電波監理委員会は、東京に2局、他の都市には1局ずつ放送免許を与えるとの方針を示す。しかしながら、東京と大阪では、多数の開局申請がなされたため、一本化を巡って調整が難航することになる。東京では、一局目としてラジオ東京(TBS)が、二局目として日本文化放送協会(文化放送)が認められる。他方、大阪では、二社間でし烈な争いが繰り広げられ、結局、新日本放送(毎日放送)と朝日放送との二局が認められる。そして、1951(昭和26)年4月には、全国の民間ラジオ放送局に予備免許が与えられることになる。
この中で、開局準備が進んでいた当時の中部日本放送は、1951(昭和26)年9月1日の朝6時30分、「ちゅうぶにっぽんほうそう、JOAR、1090キロサイクルでお送りいたします。皆さん、おはようございます。こちらは名古屋のCBC、中部日本放送でございます。昭和26年9月1日、わが国で初めての民間放送、中部日本放送は今日ただいま、放送を開始いたしました...」の第一声とともに※3、わが国最初の民間ラジオ放送を開始する(図1)。その後、民間ラジオ放送局は、日本全国に次々と登場することになる。
民間放送局が登場するまで、コマーシャルが入る放送はなかった。そのため、民間放送局や広告関係者の間では、放送に企業や商品の宣伝が入ることについて、どのように迎えられるかが、不安の種となっていた。しかしながら、1953(昭和28)年5月に行われた調査によると、「民放のコマーシャルを聴いてその商品を買いたくなったことかがある」が40%、「実際に買ったことがある」は23%と、民間放送局が登場して、数年のうちに、コマーシャルが入る放送は、概ね視聴者に受け入れられた※4。ラジオ放送開始初期の段階から黒字を計上する民間ラジオ放送局もあり、放送が効果的な広告媒体となっていたことが窺える。