裏舞台という名の表舞台
Text/Rie Shintani Photo/Ko Hosokawa
多くの人たちによってつくられる舞台。
主役のまわりに視線を転じてみると、
至る所にプロの技が輝いている。
舞台を支える人に光を当てる。
STAGE 13舞台監督 芳谷 研
"監督" とはチームをまとめ、指導し、引っぱっていく人のこと。ではそこに"舞台"が付くとどんな仕事になるのだろうか。劇団☆新感線や蜷川幸雄氏のもとで舞台監督(通称:舞監/ブカン)として活躍する芳谷研さんは、その仕事を「コミュニケーション」だと言う。
「演出家がやりたいことを具現化する、美術・照明・音響・衣裳......各プランナーとのやりとり、要は調整係、雑用係ですね(笑)。彼らのやりたいことを聞き、それができるかできないか、どうすればできるのかを検証してまとめていくのが僕の仕事です」
芳谷さんが舞監の仕事を知ったのは18歳の頃。当時は飲食店でアルバイトをしながら小劇団で役者を目指していた。
「小さな劇団だったので何でも自分たちでやらなければならなくて。役者以外にもこんな仕事があるのかと、そこで舞監という仕事を知りました。もともと役者志望でしたが、劇団が2年で解散。その時の舞監さんに、仕事がないなら手伝うかと誘ってもらったのが始まりです」
その会社で演出部(舞台監督のもとで動くチーム)のひとりとして働き、24歳の時に元宝塚歌劇団の謝珠栄さんの踊りの発表会の舞監を任された。その後は主に外国人演出家の舞台を担当。経験を積んでいく。興味深いのは舞台監督の仕事は、こういうものだとルールがないことだ。
「僕には2人の師匠がいますが、こうしなくてはならないという決まりはなくて、仕事の中身もルールも人それぞれです。僕の場合は各部とのやりとりの他に役者のサポートもします。たとえば、外国人演出家が通訳をとおして各部に指示を出しているとき、いま○○をしています、とマイクでアナウンスするのも僕の仕事です」
観察力と気づき、そして気遣いが必要不可欠な仕事だ。ひとつの舞台に関わるすべての人を繋ぐのが舞監であり「この仕事はコミュニケーション」という表現は確かに的を射ている。
芳谷さんの大きな転機は1996年。赤坂B L I T Z で行われたプロデュース公演『D-LIVE~ロック・トゥ・ザ・フューチャー』で、いのうえひでのり氏と出会ったことだ。
「当時はまだ会社員としてでしたが、それがきっかけで1999年の『直撃!ドラゴンロック2~轟天大逆転』の舞監として声がかかり、その後のいのうえさんの作品はほぼやらせてもらっています。新感線の舞台は大きな劇場ばかり。舞監として経験の浅い30代の頃は、若いという理由でなめられたくなくて必死でしたね」
思い出深いのは、いのうえさんと知り合った翌年に任された『阿修羅城の瞳』だと言う。31歳の舞台監督にとって歴史ある新橋演舞場は「キツかったですね(苦笑)」とふり返る。
「大きな劇場になると劇場専属の大道具さんもいるので、スタッフとキャストすべて含めると100人以上。まとめていくのは大変ですし、気を遣います。初めて演舞場で仕事をしたときに大道具の頭領さんに、あんまり仕事をし過ぎるなよ、体壊すぞって言われたそのひと言がすごく嬉しくて。短い会話であっても会話があることでコミュニケーションが生まれる。その時、自分も彼のような先輩になりたい、自分が嬉しいと思ったことは実行しようと思いました」
それから16年。今年はBunkamuraシアターコクーンの幕開き公演、蜷川幸雄演出『元禄港歌-千年の恋の森-』に始まり、夏には劇団☆新感線『Vamp Bamboo Burn~ヴァン・バン・バーン~』が控える。そんななか、新たな夢も抱いていると言う。
「本来の僕は一人っ子で暗い性格で、喧嘩っ早くて頑固。なので20代後半の頃、自分は舞台監督という仕事に向いていないのではないかと迷ったことも。次の仕事(舞台)で辞めよう......と最後のつもりで必死で頑張ったら、逆に楽しくなってしまって今に至ります(苦笑)。それからは辞めたいと思ったことはないですね。野望もないですけど。ただ、30年近く舞台の仕事を続けてきて、嬉しいことに、東京の大きな劇場のほとんどで仕事をさせてもらった。その経験は財産です。経験があるからこそ"こんな劇場があったらいいな" と考えることもある。いつか劇場をひとつ作ってみたい、という夢はありますね」
SANZUIの著作権は、特に明記したものを除き、すべて公益社団法人日本芸能実演家団体協議会
実演家著作隣接権センターに帰属します。
営利、非営利を問わず、許可なく複製、ダウンロード、転載等二次使用することを禁止します。