SANZUI vol.08_2015 autumn
特集 80's Spirit
80代だから、挑戦する。
歳は、取るものでなく、重ねるもの。
舞台の上やテレビの中の80代を観ていると、そう思えてくる。
若い頃にその道に入り、夢や希望を追い続け、時には失敗や挫折もあっただろう。
それでも挑戦し続けることで昇華した、人生の高み、深み、輝き。
だから、80代の「今」というピークがあるのだと思う。
40代、50代なんて、まだまだ子ども。
そう言われているような気がする、80代の挑戦者たちである。
ペギー葉山
原点は米軍クラブとバンド歌手だった。
文・安倍寧(音楽評論家)
Photo / Ko Hosokawa
ペギー葉山は、2012年、歌手生活60周年を祝って全国各地でコンサートを開いた。その後も元気溌剌、歌い続けているのは嬉しい限りだが、私は、そもそもこの数え方そのものにちょっぴり異論を抱いている。
なるほど彼女のレコード・デビューは、1952年、「ドミノ/火の接吻」(もちろんSP盤)だったから、そういう勘定も成り立ち得る。しかしそれ以前、すでにペギーは新進ジャズ、ポピュラー歌手として相当な売れっ子だったのだ。そのプロローグは無視できない。
彼女はよく「私の原点は米軍クラブとバンド歌手よ」という言葉を口にする。敗戦後、アメリカ軍に接収された新橋第一ホテル内の将校クラブで、一流ジャズ・オーケストラ、渡辺弘とスター・ダスターズの専属歌手として歌い始めたからだ。日本人向けのジャズ・コンサートでも当時のヒット曲「アゲイン」
や「トゥ・ヤング」を歌い、人気が高かった。
バンド専属歌手はそのバンドの一員だから、マイクの前に立たないときでも、前列の端のほうにちょこんとすわって待機している。想像するに歌っていない間も多くのことを学んだのではないか。
それ以来の長い長いキャリアにもかかわらず。ペギーの声は衰えを知らない。しかも若い頃より深みを増している。深みということを言うなら、むしろ声以上に歌唱力かもしれない。
去年春、名ピアニスト前田憲男の傘寿記念コンサートがあり、そのときペギーは「Can't Help Lovin' Dat Man(あの人が好き)」(ミュージカル『ショー・ボート』より)を歌ったが、これが絶品だった。これぞ究極のラヴ・ソン
グ!私はその情感に圧倒された。
ジャズのスタンダード曲からシャンソン、カンツォーネまで、「南国土佐を後にして」から「ドレミの歌」まで、ペギー葉山の守備範囲は限りなく広い。そのなかで私がひときわ愛着を持つのは、平岡精二作詞・作曲の「爪」「学生時代」である。ジャズ・ヴァイブラフォン奏者平岡と彼女の都会的センスがぴたり一致したからこそ、こういうお洒落な持ち歌が生まれたのだろう。
ペギーと私は昭和一桁の同年生まれである。会えば苦しかった戦中・戦後体験の話になる。彼女はきっぱりと言う。
「あの時代を若い人たちに語り継いでいかなくてはね」
それは、敗戦、廃墟、ジャズが分かち難く結びついている私たち世代の責務にちがいない。
文 安倍 寧(音楽評論家)
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