エッセイ
Illustration / Asuka Kitahara
林望「舞台で歌うということ」
生来の恥ずかしがりで、少年時代から私は人前で歌を歌ったりすることを大の苦手としていた。
それが、大学時代に能を学び初め、謡や小鼓、仕舞などを学んで、やがて地謡方として舞台を勤めるようになると、さあ、人前で謡うということが俄然面白くもなり、また恥ずかしくもなくなった。きちんと師匠について基礎から稽古を積んで舞台にあがれば、人前で謡うことは決して恥ずかしくないということを知ったのだ。
しかし、昔から純粋に聴いて愉しんできたのは西洋声楽で、機会あらば是非師匠について学んでみたいと思っていた。そこへ東京芸大音楽学部教官にならないか、という話が降って湧いたのは、なんという天の恵みであったろう。さっそく声楽の基礎から習い初めて、コンコーネ、イタリア古典歌曲、それからソルフェージュ、楽典等々プロに師事して勉強し、数年後には、芸大や国立音大出の声楽家たちと重唱団を結成して、各地で舞台を勤めるようになった。The Golden Slumbersという日本歌曲や英国歌曲を歌う混声重唱団、さらには英語重唱曲に特化した重唱林組という混声四重唱団、この二つのグループを主宰しつつ、プロの声楽家たちと一緒に多くの舞台を勤めたことは、どれほど勉強になったか分からない。百回の稽古より一回の本番と言う通りだ。
今は、バリトン独唱でも折々舞台に立つが、その快愉はなにものにも代え難い。
書斎に篭城して著作に励む日常のなかで、暇さえあれば歌の練習に励み、時に舞台に出て真剣勝負で歌う。私はプロではないけれど、お客さまに聞いて頂く以上、演奏は一定のレベルに達していなくては話になるまい。入場料を頂いて舞台で歌うということは、すなわち「仕事」なのであって、いい加減な演奏は決して許されない。そうして、全力で本番を終えたあとの爽快な達成感、これこそは実演芸能の醍醐味なのだと、つくづく痛感する毎日である。
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