PLAZA INTERVIEW

vol.039「その役作りのプロセスが、役者は一番楽しいんです」

1961年に日活映画『高原児』でデビュー。翌年『激流に生きる男』で初主演。68年にNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』に出演、73年には『国盗り物語』で織田信長を演じるなど、映画、テレビで時代劇を代表するスターとしての地位を着実に築いてきた高橋英樹さん。76年から始まった『桃太郎侍』では主役を演じ、『西村京太郎トラベルミステリー・十津川警部シリーズ』では、長年に亘り十津川警部役を好演。さらに最近では、バラエティー番組やクイズ番組にも幅広く出演し、「芸能」への意欲的な姿勢を見せてくださる高橋英樹さんに、CPRA法制広報委員会の松武秀樹副委員長が、50年を超えた俳優生活への思いを伺いました。
(2012年10月19日公開)

Profile

高橋英樹さん
1944年千葉県生まれ。学校長で厳格な父親のもとに育ちながら、小さい頃から映画や小説が好きで俳優に強い憧れを抱く。父親が俳優を諦めさせるために、こっそり応募した日活のオーディションにみごと合格。61年日活の『高原児』で映画デビュー。『伊豆の踊子』『戦争と人間』『けんかえれじい』『男の紋章』など、映画の黄金時代に多数出演。68年に出演したNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』、73年『国盗り物語』の織田信長役、日本テレビ『桃太郎侍』など、時代劇の看板スターとしての地位を確立する。テレビ朝日『西村京太郎のトラベルミステリー・十津川警部シリーズ』、テレビ東京『捜査検事・近松茂道シリーズ』など現代ドラマへの出演も広げながら、多数のバラエティー番組、クイズ番組、アニメ映画の吹き替えなどでも多彩な活躍を見せている。レギュラー番組 BS-TBS『ライバルたちの光芒』では、教科書では習わない歴史の面白さを伝える番組の総合司会を務めている。

高校時代に映画にはまって

039_pho01.jpg ――厳格なご両親の反対を押し切って、日活に入社されたと聞いていますが。
父親が「勉強、勉強」で厳しかったのですが、高校で電車通学になったら、駅前に映画館が2館あったので、しょっちゅう観るようになったんです。3本立てで、2館で6本。夢中になると、隣の駅でまた観ていました。

――お小遣いをためて。
うちは厳格でお金がもらえないので、弁当代をもらって、弁当を食べずに2日ためると映画館に行けるんです。級友に恵まれていて、弁当を分けてもらいましてね。そういうなかで、俳優という仕事にあこがれをもって、映画クラブを立ち上げたんです。

――高校で映画のクラブを?
友だちに声をかけたけど、誰も入らないんです。ついに私一人(笑)。そのくらい、好きだったんです。でも、俳優の仕事の世界はまったくの素人だったので、実際自分がこの仕事に携わってみると、あこがれと全然違うことに気付いて、がく然としました。

役作りは徹底的に

039_pho02.jpg ――高橋さんといえば、時代劇であれば「桃太郎侍」、現代ドラマなら「十津川警部」「杉崎船長」など数多くの当たり役を持っていらっしゃいますが、一番印象に残っている作品は何でしょうか。
今も続いている「十津川警部」は、自分でも面白い作品だと思います。この11月に59作目の撮影に入るのですが、その作品に私自身が参加できているのはとてもありがたいです。何せ私は、十津川警部をやる限りにおいては、検挙率100パーセントですから。(笑)。

――最後は必ず検挙で解決しますからね(笑)。
時代劇で私自身、演じて楽しかったのは「織田信長」ですね。これは、難しいんですよ。ご覧いただく方たちが持っている信長像に、挑戦することになるので。イメージを壊さないようにしながら、新たな自分の信長像をどう作るか。役者というのは、その作り方の勝負だと思うんです。

――事前に人物像などを調べたりして。
歴史が大好きなので、徹底して調べます。小説や歴史書を読んだり、その人がいた現地へも必ず行ったり。それだけでなく、自分なりの味付けをどうするか。その役作りのプロセスが、役者は一番楽しいんです。その人物が格好良く思われる人なのか、あるいは残虐に思われる人なのかとか。絵でいうと、どの色で塗ろうか考えているようなときが。

「削ぎ落とす」ことで生まれるもの

――その絵画や書を描かれるのがご趣味ということですが、これらは演技と通じる部分があるのでしょうか。
これは完全に演技と合い通じるものだと思います。絵でも書でも、どれだけ削るかが大事なんです。たとえば景色を描くとき、葉っぱが100枚あったら、100枚描く必要はないですよね。1枚にするか2枚にするかで、絵の力強さも違ってくる。そこにあるものを、どう消滅させるか。それでいて、そこにないものを表現して感じさせるというのが、絵であり、書だと思うんですよ。

――なるほど。
それは、役者の演技も同じだと思います。すべて削っていって、シンプルになった状態を表現するのが最高だと思うのです。ありったけ知識を詰め込んで、ありったけのものを張りつけて、それを削ぎ落とすんです。

「俄芝居」に通じるバラエティー

039_pho03.jpg ――最近ではバラエティーに出演されたり、ポケモンの映画で声優にチャレンジされたりしていますが、そういう場は、今後も広げていかれるのでしょうか。
オファーがあったら飛び込んでみようという気持ちは、常に持っています。制作している方たちが、「高橋英樹」という「素材」を料理しようと思ってくれたら、そこには参加すべきだと思っているんです。自分の持っている素材を最大限に利用してもらえるよう、常にいろいろなものを身につけ、健康でいるように努力しています。

――バラエティーは大変ではないですか?
はい。しゃべっている最中に、突然振ってくる。そのときに答えないと、それっきりですからね。さんまちゃんなんか、すごい。だから、頭の中で常にぐるぐる、今振られたら何を答えようと考えておかないといけないので。

――瞬間的な駆け引きの連続ですからね。
それは、役者の世界でいう、「俄(にわか)」に通じるんですよ。言われたことをもとに即座に芝居をつくりあげるという、役者の原点です。今は台本ができていて、役者は俄の修業をしないできちゃっている。でも、本当の原点は俄の世界だと思うんですね。それを忘れないという意味では、バラエティーに参加するのは大事なんです。

――俳優としても得るものがあるわけですね。
僕は、ベテランの手抜きが一番嫌いなんです。だから、とにかく頑張って、そこに自分の身を置く。そのために努力する。それが一番必要だと思っていますので、オファーがきたら参加しようと常に思っています。

安心して演じられる環境を

039_pho04.jpg ――私ども芸団協CPRAの活動へのご意見、ご期待をお聞かせください。
この活動がより強く、より大きく広がることを念じています。演者の人たちの権利は、もっと確立されるべきだと思います。私たち演者も、より安心して演じることができる、そして自分の権利を持つことができるよう、やっていただけたらありがたいと思います。

――今年6月に、WIPO(世界知的所有権機関)で俳優の演技を保護する国際条約が作成されまして、20年来の願いだった視聴覚実演が権利として認められました。
ありがたいことです。昔の映画に出た人間にとってみると、自分たちが演じたものに自信が持てるためには、やはり権利がちゃんと認められるべきだと思いますのでね。

――最後に、今後のご予定をお聞かせください。
今のところ、ずっと働き詰めですね(笑)。働くのが趣味というところもありますが、オファーをいただいて、それに対して自分がどれだけ表現できるか、どんな形で参加できるかを楽しみにしていますので。そのためには、体を丈夫にして、いい状態の高橋英樹を皆様に見ていただく。そのなかから、少しでも元気をくみ取っていただけるとありがたいなと思います。常に勉強をし、健康に留意し、そして新たな仕事に挑戦し、歩き続け、走り続けたいと思います。

――もちろん、ご趣味の絵や書も。
私は60歳を前にしたころ、ちょっと体調を壊しまして。なぜかというと、長いこと働いてきたので、そろそろ少し楽をしようかと思ったんです。そうしたら、めまいはするし、動けなくなるしで体がボロボロになった。そのときに出会ったのが芸術なんです。

――そうなんですか。
私と同年代の、絹谷幸二という画家と、黒木国昭というガラスの工芸作家たちの製作のエネルギーと作品に触れたとき、一気に元気になったんです。自分も負けていられないと。自分は演じたもの、表現したものをお客様に観ていただき、少しでも元気になっていただく仕事をしているのに、「もうやめよう」みたいなことを考えていてどうするんだと思ったんです。

――良い演技は観る人を元気にしてくれますからね。
芸術でも、名作と言われるのはうまいものではなく、エネルギーのあるものですね。そのエネルギーを絵や工芸から感じて、これが自分たちを元気にしてくれているんだと。だったら我々役者も、常に自分が元気で、楽しいものを作って皆さまに喜んでいただく。それが仕事じゃないかと思いました。ですから、これから先も、そういう思いで仕事をしていきたいと思っています。

――今後も、多くの人に元気を与えてくれるお仕事を期待しています。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

関連記事