猪俣公章氏の弟子として7年
―― 坂本さんは、1986年にNHK『勝ち抜き歌謡天国』和歌山大会で名人となり、審査員をつとめていた猪俣公章先生の内弟子になりますが、先生の想い出を振り返ると...。
初めての出会いは3月1日で、とても寒い日でした。先生がマスクをしていらしたので、「先生、お風邪ですか」って聞いたら、「違うんだよ。見てごらん」てマスクをとると、唇の上のところがすごい傷になってるんです。「酔っ払って転んじまったんだよ。ガハハハ」って(笑)。私は最初すごく緊張していたんですけど、なんて楽しい先生なんだろうって気が楽になったのが最初の出会いでした。
―― その時のレッスンは厳しかったですか?
いえ、その人に合った教え方をして下さって、人を気分よくさせる名人だったと思います。ポイントをすごく分かりやすく言って下さるんです。最初は自分流に歌っていいよって言ってくれて、それから「ここはささやけ」「ここはだんだん気持ちを込めて歌っていけ」と、本当にわかりやすく説明して下さって。時間は短いけれども、内容の濃いレッスンをして下さいましたね。
ロックミュージシャンとのコラボで
―― 87年に『あばれ太鼓』でデビューされますが、初期は『祝い酒』『男の情話』など男の人の心を中心にしたものが多いですね。去年発売された『アジアの海賊』にもつながる部分があるのかなと思うのですが、男の気持ちを歌う坂本さんの気持ちは?
理想の男性像をどこかに描いて歌うんです。最近では、いつの間にか自分が男になりきって歌ってます。強いけれどもやさしくって、懐の深い男性像を思い描いて歌っています。
―― 同じく87年に、忌野清志郎さんのコンサートでプレゼンターとして花束をお渡しになっているのですが、忌野さんの印象は?
私自身が学生のころ、清志郎さんは坂本龍一さんと『い・け・な・いルージュマジック』で共演されていて、メイクばっちりの映像が流れていた記憶があったんです。花束を渡したときもそういう姿だったんですけど、とてもシャイな方で、目が合うと、そらしてしまうようなタイプの方なんだなという印象でした。
―― 90年に『能登はいらんかね』を発売されたあと、清志郎さんたちと「SMI」を結成されるんですが、その経緯は...
「ロックが生まれた日1990」というイベントをやるにあたって、レコード会社が結成したんです。「M」は三宅伸治さんでしたけど、それが後の、細野晴臣さん、清志郎さんとの「HIS」につながっていくんです。細野さんもやはり私のこぶしに興味をもってくれて、一緒にやってみたいと言って下さったみたいです。
―― 「ロックが生まれた日1990」では、大阪の野外音楽堂と東京・日比谷野外音楽堂でライブを開催されていますね。
演歌でデビューしてわずか4年目なので、まったく違うジャンルの世界に飛び込んでいくのは勇気がいりました。けど、セーラー服を着たことによって、「やっちゃえ」みたいな、いい開き直りができたんです。
―― これ以外にも、ロックのアーティストなどといろいろ接点がおありですけど、どういうタイミングで出会うんですか。
これはすべて、清志郎さんに声をかけていただいてっていうところから始まっているんです。最近は中村あゆみさんに曲を書いていただいていますが、あゆみさんとは、たまたま加山雄三さんが毎年夏に越後湯沢でやってらっしゃるイベントに私がゲストで出たとき、あゆみさんも出ていらして。話していたら同学年だってわかって、意気投合したんです。初対面でアドレスを交換して、私のコンサートを観たいって、いらしてくれて。『アジアの海賊』はご自分がもっていらっしゃった歌なんですけど、「これ絶対に冬美ちゃんに合うから歌ってよ」っていうことで、いただいたんです。
―― やはり、そういう方たちと意気投合する、何かがあるんでしょうね。
清志郎さんもあゆみさんもそうですけど、魂で歌ってますよね。そういう意味では、私もけっこう魂で歌うほうだと思うので、ジャンルはまったく正反対かもしれないけど、そういうところで何かを感じてくれたのかなって思います。