「医者になろう」と思った高校時代
――よくある質問だと思いますが、女優さんになられたきっかけは。
17歳の高校2年生のとき、NHKの『バス通り裏』で、十朱幸代さんのお友達の高校生役を探していらしたんです。たまたま、プロデューサーが父の知り合いで。それで出させていただいたら、それを見た木下惠介監督からお誘いを受けて松竹に入社。何だか、いつの間にか女優をしていたという感じでした。
―― お芝居をやっていこうというお気持ちは?
全然なかったんですよ。女優には全然興味なかったし。
―― 何か違う職業につこうと。
お医者さんになりたかったんです。でも、勉強しすぎちゃって体こわして、高校2年のとき原因不明の病気で1年留年しちゃったんです。それで、一生懸命勉強してた自分が馬鹿らしくなっちゃって。そんなことで、父が気分転換にやらせてみようと思ったのかもしれないです、落ち込んでたから。ですから、大学行きながらのアルバイトぐらいの軽い気持ちで、松竹にも入ったんです。
―― でも、その後はずっと女優を続けてらっしゃいますよね。
そうなんです。あの無欲な私が、よくここまでこられたなあって思います(笑)。松竹に入って5年ぐらいして、野村芳太郎監督の『五瓣の椿』っていう作品にめぐり会ったんです。珍しくリハーサルが2ヶ月もあり、本読みをすごくじっくりやって、ひとつのセリフを「楽しく言ってみてください」「泣きながら言ってみてください」「怒りながら言ってみてください」「ちょっと笑いながら言ってみてください」とかって、いろんな注文を監督に出されたんです。それで役を作る楽しさとか苦しさとか、面白さが初めて判ったんです。
―― それは大変ですね。
私は、「ええっ? ひとつのセリフでもこんなに言い方があって、こんなに意味が違ってくるんだ」って初めて知って、役をつくるっていうのは大変だけど、楽しいんじゃないかなって思いはじめた、発見したんです。自分なりに。それで、24歳の時初めて、女優をやっていこうっていう自覚みたいなものができたんです。
女優として「節目」になった作品は
―― そうなんですか。出演された映画で、印象に残っている映画にはどのようなものがありますか。
映画はたぶん、全部で120本弱出させていただいていると思うんですけど、『秋刀魚の味』は小津安二郎先生の最後の作品で、すごく印象に残ってますね。
―― 去年の日本映画俳優協会「主演者とともに懐かしの名画鑑賞会」で上映され、岩下さんと石濱朗さんのトークショーがすごく楽しかったです。
石濱さんがね、すごく話の引き出しがうまいから。私は人前で話すトークショーとかすごく苦手で嫌いなんです。女優なんてむいてないんじゃないかと思うくらい(笑)。でも、石濱さんとは共演したこともあって親しみもあるし、あのときは話しやすかったです。
―― ほかに印象に残っている作品はありますか。
川端康成先生の『古都』ですね。双子の役で二役やりました。それと『五の椿』。そのあとは、近松門左衛門の『心中天網島』。篠田の作品です。それと『智恵子抄』、『雪国』、そして『影の車』かな。自分自身で一番好きな作品は、水上勉先生原作の『はなれ瞽女おりん』です。そのあと40代になって、やはり近松の『鑓の権三』、それと清張先生の『疑惑』が印象に残っている作品です。
――『秋刀魚の味』では、本当に清純なお嬢様という感じでしたね。
まだ22歳ぐらいでしたからね(笑)。
――数多くの作品で、いろいろな役を演じてこれらたんですよね。
松竹では清純派で始まって、『影の車』とか『心中天網島』で情念の女を演じて、文芸作品がいくつかあって、それで『極道の妻たち』なんですよ。あそこで、役柄がものすごく転換しちゃったんですね。
――演じ分けるコツみたいなものはあるんですか。
コツはないですね。ただセリフを一生懸命読みこんで、何度も繰り返しているうちに自分がその人物にだんだん近づいていくっていうことしかないです。あとは、たとえば『疑惑』なんかで弁護士の役をやるときは、弁護士事務所に行ったり、家庭裁判所に何日か通うとか。私の場合は、そうやって外側から役作りをしていくほうなんですね。