ラジオ放送の誕生と実演家の権利
企画部広報課 君塚 陽介
ラジオ放送の誕生
1925(大正14)年3月22日朝9時30分。東京の芝浦にあった東京高等工藝学校(現在の東京工業大学附属科学技術高等学校)の図書室を仮放送所として、「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。」との第一声が発信される。コールサインの「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」は、深く緩やかに、抑揚をつけて、遠くに呼びかけるようなアナウンスだったという(図1)。1943(昭和18)年、日本放送協会は、3月22日を「放送記念日」としている。この東京の芝浦から発せられた第一声が、わが国のおける「放送」の始まりと言えるだろう。
では、そもそも、ラジオ放送局の始まりは、いつだろうか。一般的には、1920(大正9)年、アメリカで開局したKDKAが、世界最初のラジオ放送局と言われている。20世紀初頭、アメリカでは、無線通信がブームとなり、草の根的なネットワークを形成していた。やがて、無線通信が活用された第一次世界大戦が終わり、アメリカに戻った無線通信士たちは、アマチュア無線家として様々な実験を行い、ラジオ放送が登場する土壌を作り上げていく。そのような中、KDKAの登場は、もともとは、双方向のやり取りを行う無線通信を、「放送」というマスメディアに転換したところに意義があると言われる※1。すなわち、技術的には、受信と送信の両方が可能であったラジオ無線を、発信点を中心に同心円状に拡散していく電波の特徴を活かして、送信側を放送局、受信側を大衆とする、マスメディアとして成立させたのだ。KDKAの登場以降、アメリカ国内では、500を超えるラジオ放送局が開局したという。このような海の向こうの動向は、わが国にも伝えられ、政府や民間において様々な実験、調査研究が進められた。そして、1923(大正12)年8月、政府はラジオ放送に関する方針を決定する※2。すなわち、特別立法は行わず、放送を無線電信の一種と捉え無線電信法※3の枠内で処理すること、また、放送事業は民営によるものとしたのだ。これは、当時、放送が国民生活にとって絶対緊要のものではなく、将来の見通しも明らかではないため、国家財政的な余裕もないという理由があったという。さらに、1923(大正12)年9月の関東大震災の際には、新聞社が機能不全に陥ってしまったため、情報伝達の面でも、ラジオ放送の必要性が唱えられた。
この方針に基づいて関連法規の整備も進められる。無線電信法第1条では「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」とする一方、同法第2条では、無線電信を、主務大臣の許可を受けて私設することができるとしていた※4。そこで、1923(大正12)年12月、政府は「放送用私設無線電話規則」を定め、政府の許可の下で放送事業を可能にしたのである。
また、政府は、当面の間、東京、大阪および名古屋の三都市において、それぞれ放送局の設立を認めることにした。当時の微弱な電波によって、ラジオ放送を多くの人に知らしめるためには、先ずは人口の多い都市から開始することにしたのである。ところが、放送事業に、多数の許可出願がなされたため、政府は、民営によるものとしていた方針を、非営利による、公益を目的とした社団法人によるものへと方針転換した。政府には、多数の許可出願がなされるのは、放送事業が儲かると考えているからであり、儲からないようにすれば、引き下がるだろうとの思惑もあったという。また、許可出願者間の調整も行われ、東京放送局、大阪放送局および名古屋放送局の各社団法人の設立許可が与えられた。1925(大正14)年6月1日には大阪放送局が仮放送を、同年7月15日に名古屋放送局が本放送を、それぞれ開始する。
「放送用私設無線電話規則」は、放送局を建設、運営する者および受信機を設置してラジオ放送を聴取しようとする者が、守るべき必要な手続や事項を定めていた。ラジオ受信機は、政府の合格証明を受けていたものに限られ、放送局に支払う月額1円の聴取料のほか、受信機設置の許可料を国に支払う必要もあった。東京の小学校教員の初任給が月額25円という時代に、鉱石ラジオは30円以上、真空管ラジオは100円から200円と、極めて高価なもので、鉱石ラジオの方が普及していた(図2)。
1925(大正14)年6月には、東京の愛宕山に東京放送局の新局舎が完成し、同年7月12日、東京放送局の仮放送は本放送に切り替わることになる(図3)。新局舎には、三つの演奏スタジオが備わり、洋楽用の演奏室では、大きな編成の楽団による演奏も可能となった。この愛宕山からの放送は、1939(昭和14)年まで続けられることとなり、現在、愛宕山にはNHK放送博物館が建てられている。
ラジオ放送と実演家、三局の統合から日本放送協会の誕生へ
ラジオ放送の開始当時、録音技術は既に誕生していたものの、録音された音を放送に乗せて、聴取者に届けるまでの技術には至っておらず、生放送のみであった。録音された音が、ラジオ放送を通じて聴取者の耳に届くのは、ベルリンオリンピックが開催された1936(昭和11)年以降のことになる。
では、生放送であったラジオ放送開始当時、どのような番組が放送されていたのだろうか。東京放送局における放送番組種目別放送時間の割合を見ると、邦楽・洋楽や演芸といった娯楽番組の比率が36.0%を占めていた。他方、講演・講座といった教育番組は37.2%、報道番組は26.8%という具合だ。また、娯楽番組は大阪放送局で37.1%、名古屋放送局で36.8%放送されていた。まだ、録音された音を放送するための十分な技術がない中で、生の実演を届ける実演家は、大きな役割を果たしていたことが窺える※5。
ラジオ放送開始当時、受信機として普及していた鉱石ラジオは、高い竹竿にアンテナを張ってレシーバーに耳を当てて一人で聴くものだった(図4)。鉱石ラジオは、当時、まだ普及していない真空管ラジオに比べ受信感度が低く、しかも、当時の微弱な電波では、ラジオ放送を聴くことができるのは、三つの放送局が所在する都市やその付近に密集していたため、ラジオ放送を聴取する環境に格差が生じていた。そこで、政府は、全国に放送網を施設するとともに、三つの放送局の経営統合を計画する。三つの放送局とも、経営統合には賛同したが、新たに設立される新法人の役員の多くが政府出身者であることに反発を示していた。しかしながら、三つの放送局の経営統合は推し進められ、1926(大正15)年8月20日、東京放送局、大阪放送局および名古屋放送局は解散し、社団法人日本放送協会(以下「放送協会」)が設立された。戦後、放送法が成立するまで、放送協会がわが国における放送事業を独占的に行うことになる。
新たに設立された放送協会は、全国放送網の施設計画の実現に向けて、その取組を進めた。また、その一方で、政府も、ラジオ放送を全国に普及させるために、様々な施策を講じた。当時、ラジオ放送の受信機を私設するためには、政府の許可が必要だったが、この申請にあたっては、放送協会との受信契約書を添付する必要があった。この受信契約に基づく聴取料は、放送協会の収入を確保することにもなった。また、受信機の免税制度を設けるなど全国普及運動を推進し、政府は放送事業の育成を自己の職責として努力したとも言われている※6。このような政府の支援も背景に、ラジオ加入者数は増加の一途を辿ることになる。1926(大正15/昭和元)年度末には、聴取契約数は約36万件、普及率は3.0%だったものが、終戦前の1944(昭和19)年度末には、加入数は747万件を超え、普及率も50%を超えることになる(図5)。
終戦から放送の成立へ
三つの放送局を経営統合し、放送協会の設立後も、放送事業は、無線通信法に基づいて規律され、政府による裁量の余地が広く認められていた。経営統合により政府の監理は、それまで以上に容易なものとなり、事前検閲などの監理は、さらに強まっていくことになる。しかも、わが国が戦争に突入すると、より一層監理を強めていた。
このような放送事業は、終戦により、新たな局面を迎える。新憲法の下、連合国総司令部(GHQ)との間で放送に係る法制度は見直しを迫られたのである。民間にも放送事業を開くべきであるか、放送協会を再編すべきであるか、あるいは民間と放送協会とを併存すべきであるかなど、様々な議論が繰り返された。
そして、1947(昭和22)年10月、GHQより、のちの放送法の成立に向けた決定的な示唆、ファイスナー・メモが与えられる※8。このファイスナー・メモには「放送の自由・不偏不党・公共サービス・技術基準の順守に立つ基本法をつくる」や「公共機関と民営の二つの放送方式で自由な競争をさせる」などといった、放送法の基本となる考え方が含まれていた。その後も、放送法の成立までには紆余曲折を経るが、1950(昭和25)年4月26日、電波法や電波監理委員会設置法※9と併せて、放送法が成立する。ここにおいて、放送法に基づく特殊法人日本放送協会、現在のNHKが誕生することになる。そして、放送法の成立は、民間放送局の設立も可能にした。
ラジオ放送と実演家の権利
ラジオ放送開始以前、実演家の権利保護は、録音技術の登場とともに認識されていた。例えば、わが国では、1899(明治32)年に成立した著作権法(以下「旧著作権法」)が、著名な浪曲家のレコードが無断で複製・販売されていた桃中軒雲右衛門事件において、浪曲は、旧著作権法にいう音楽にはあたらないとされたことを契機として、1920(大正9)年に旧著作権法が改正され、「演奏歌唱」を著作物として保護していた。
放送と実演家の権利については、1928(昭和3)年のベルヌ条約ローマ改正会議での議論がある。このローマ改正会議の大きな成果のひとつに、著作物に係るラジオ放送権の創設がある。この議論の際、イタリアとベルヌ同盟事務局は、著作物を演奏する実演家に、その演奏の放送を許諾する権利を与えるとの提案を行った。わが国は、このとき既に、演奏歌唱を著作物として保護しており、賛成したが、イギリスやフランスなどは、ベルヌ条約は著作者の権利を保護するものであるから、演奏家たる実演家の権利保護はベルヌ条約の枠外にあるなどの理由から反対し、結局、イタリアらの提案は撤回された。しかしながら、イタリアからの提案を受けて、ローマ改正会議では、政府関係者が実演家の権利保護の可能性を熟考することを希望する、との決議が採択された。この決議を受ける形で、1939(昭和14)年には、スイスのサマダンにおいて、ベルヌ同盟事務局と私法統一国際協が、いわゆる「サマダン草案」を起草することになる。このサマダン草案には、実演家の保護だけではなく、レコード製作者や放送事業者の保護も含まれていた。
その後、第二次世界大戦により、実演家の保護に関する検討は、一時中断することになる。そして、1948(昭和23)年のベルヌ条約ブラッセル改正会議では、サマダン草案が議論の遡上にのぼることはなかったが、実演の創作的な性質に鑑み、著作権に関連する権利として実演家の権利保護について積極的に推進することを希望する、との決議が採択された。国際条約において、実演家の権利保護が陽の目を見るのは、1961(昭和36)年のローマ条約の成立を待たなければならないことになる。
※1:吉見俊哉『メディア文化論』173頁以下(有斐閣、2004)
※2:NHK 放送文化研究所監修『放送の20世紀-ラジオからテレビ、そして多メディアへ』16頁(日本放送出版協会、2002)
※3:1915(大正4)年制定。無線通信について規律していた法律。のちの電波法の成立によって、無線電信法は廃止されている。
※4:無線電信法第2条第6号「主務大臣ニ於テ特ニ施設ノ必要アリト認メタルモノ」として、「放送用私設無線電話規則」が制定された。
※5:『20世紀放送史[上]』37頁(日本放送協会、2001)
※6:荘宏『放送制度論のために』167頁以下(日本放送出版協会、1963)
※7:社団法人東京放送局の時期を含む。契約数は、各年度末における数値。
※8:連合国総司令部民間通信局ファイスナー調査課長が示唆したことから、「ファイスナー・メモ」と呼ばれている。
※9:電波監理委員会は、電波の管理および放送を担当する独立行政機関として設置されるが、1952(昭和27)年に廃止された。
〔参考文献〕脚注に掲げるもののほか、以下の文献を参考にした。
片岡俊夫『新・放送概論』(日本放送出版協会、2001)
鈴木秀美=山田健太=砂川浩慶編『放送法を読みとく』(商事法務、2009)
『著作権白書-著作権に関する条約の側面からみて-』(著作権情報センター付属著作権研究所、2007)
取材協力・写真提供:NHK放送博物館