PLAZA INTERVIEW

vol.029「デビュー40年でさらに幹を太く」

日本中のお茶の間で親しまれ、知らない人はいないといえるこの人の笑顔。30年以上前に放送されていた『カックラキン大放送』で堺正章や坂上二郎らのコントの相手をつとめ、「ナオコばぁちゃん」は大人気を博した。数多く出演したCMでも、キンチョールの「飛んでれら、死んでれら」など、流行語となるフレーズを生んできた。本業である歌手としては、1975年に『愚図』が大ヒット。その後も、中島みゆきの『あばよ』(76年)『かもめはかもめ』(78年)、桑田佳祐の『夏をあきらめて』(82年)、小椋佳の『泣かせて』(83年)、田原俊彦とのデュエット『夏ざかりほの字組』(85年)など、多くのヒットを飛ばしてきた。その活躍はテレビドラマ、映画、舞台などあらゆるジャンルに及び、数々の名優などとも共演。幅広い交友関係を築いてきた。 その研ナオコさんと以前から親交のあるCPRA広報委員会の松武秀樹委員長が、デビュー40周年を振り返って深い思いを伺った。
(2011年01月05日公開)

Profile

歌手 研ナオコさん
1953年静岡県生まれ。16歳で歌手をめざして上京。71年に『大都会のやさぐれ女』でデビュー後、『愚図』でFNS歌謡祭優秀歌謡音楽賞を受賞。『あばよ』はオリコンチャート1位、日本歌謡大賞放送音楽賞などを受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場。『かもめはかもめ』では、日本レコード大賞金賞を受賞した。2001年のNTV『24時間テレビ「愛は地球を救う」』では、歴代初の女性ランナーとして85㎞を完走。自伝エッセイ『家族リレー~ナオコんちの場合』(02年)がある。

歌手として飛び込んだこの世界

029_pho01.jpg ―― 歌手を目指して1970年に上京されましたが、一番苦労したことはどんなことでしたでしょうか。
いろんなことがありましたが、自分のなかでは苦労と思ってないんですよ。食べていくためにアルバイトをしたり、曲をもらってデビューしてからも、夜行列車で全国の小っちゃなキャバレーやスナックをまわりましたが、全然売れなかった。でも私は、みんな同じようにやってるもんだと思っていたので、全然、苦労って思わなかったんです。だから私は、いつでもああいうことができるんです。何があっても平気ですね。

―― その後、1975年の『愚図』でFNS歌謡祭優秀歌謡音楽賞を受賞して以来、数々の賞を受賞されていますが、思い出に残るシーンは。
それまで全然売れなかったんですけど、『愚図』が売れて、うちの社長・田邊昭知っていう顔の恐い人が(笑)、ヒット記念パーティーを開いてくれたんです。そのとき、初めて社長が泣いたんですよ。鬼の目にも涙って、ああいうことですよね。社長も、相当がんばったんだなーと思いました。その場面は忘れられないですね。

―― 中島みゆきさんの楽曲を歌われることが多いのですが、出会いのきっかけはどのようなことだったのですか。
初めてみゆきさんの曲を聴いたのが、飛行機の中だったんですね。『アザミ嬢のララバイ』っていうのが流れてて、「私、この人の歌の世界好きだ」って思ったんです。みゆきさんの持ってる、歌の世界、詩の世界、すべてひっくるめて「ああ、この人がいい」って。翌日すぐマネジャーに、「この人に曲つくってほしいんだけど、聞いてみてくれる?」って。

―― 第一印象はどのような感じでしたか。
レコーディングの日だったんですけど、どこにいるかわからなくて。スタジオの隅っこで、メガネかけて髪の毛引っ張って結んで、地味な洋服着て、短い鉛筆で詞を書いてたんです。不思議な感じでしたね。こういう人が、ああいう歌の世界を書くんだ、って。もう、挨拶しかできなかったですね。こう見えても、けっこう人見知りなもんで。エヘヘヘ(笑)。

いろいろな仕事で出会った人びと

029_pho02.jpg ―― バエラエティ番組やドラマの他に、CMにも数多く出演されていますが、記憶に残るものはありますか。
「キンチョール」も「おむすび山」も、全部印象に残ってるんですけど、「ユニチャーム」のような生理用品のCMって、当時はタレントさんや女優さん、歌手はタブーとされていたんです。私が初めてだったんですよ。「研ナオコがやったから私も」っていうことが、いろんな場面であったんです。その判断を下した田邊社長は、すごい人だなって思いましたね。

―― バラエティ番組も多かったですね。
『カックラキン大放送』で「ナオコばぁちゃん」やったの、まだ23歳ぐらいだったんですよ。みんな、「子どものころ見てた」って言いますけど、「えー? 子どものころって言うな、コラー」って言ってます(笑)。

―― いろいろな方と共演もされて。
本当にそうですね。森繁のおじいちゃんともやらさせていただきましたし、もうお亡くなりになった名女優さんや俳優さんなど、すごい人たちとやらさせていただきました。そういうものが、自分の宝になっていますね。

「家族」とともに走る日々

―― 2001年にNTV「24時間テレビ」で、女性で初めてマラソンに挑戦されましたね。テーマとされた「家族愛」を全国に届けられて。
家庭内暴力などのニュースで、家庭が崩れてきちゃってるという思いもあったんで、お話があったとき、これは私がやるべきだと思って引き受けたんです。親は子どもを絶対に守らなくちゃいけないっていう思いを伝えたかったし、そういう思いを心に秘めて走ったんです。

―― ウルトラマラソンで、距離が85㎞。ものすごいですよね。
私、走るのは好きじゃなくて、この世界に入ってからまったく運動してなかったんで、距離感がわからないから走れたと思うんです。最初は、10mぐらいで走れなくなっちゃったの。やめた方がいいんじゃないのってみんな言ったんですが、私は決めたことは絶対やるから、とにかく歩くところから始めたんです。

―― すごい決意ですね。
それと、スタッフと一緒に皇居の周りを走るのが嫌で、一人でやらせてくれって頼んだんです。周りに走ってる人がいるのに、軍団で走ったらどれだけ迷惑か。私はそれがすごく嫌だったの。最初は歩いて、走るところまでいったのは、2か月ぐらいかかったかな。そこからやっと少しずつ走れるようになって、走って歩いての繰り返し。皇居1周を走れたのは4カ月ぐらいたってからかしら。ずっと一人で、最後の仕上げに全員そろって河口湖で走ったのは、20㎞以上だったんですよ。

―― マラソンは自分との闘いですね。
ゴールしないと家族に会えないと言われて、それならゴールするしかないじゃん!って走りました。スポンサーさんのことを考えるとオンエア内にゴールする。そのためには休憩も何カ所か飛ばしたんですよ。

―― あれは感動的でしたね。「家族愛」のメッセージが、多くの人に届いたと思います。ところで、話は飛びますが中日ドラゴンズファンなんですね。
引退した川又君の紹介で選手を紹介してもらって友だちになったし、うちの息子が、落合監督の息子さんの福嗣君と同じ学校で、いろんな場面でお付き合いさせてもらって、ドラゴンズを応援するようになったんです。

―― じゃあ、球場へも行かれたり?
キャンプも行きました。みんな練習してるのに、落合さんが私を見つけて「おう!」って来てくれたり、選手用のジャンパーを、名前入りでうちの家族のために作ってくれたり。

自然に触れて心もきれいに

029_pho03.jpg ―― 北海道の音更(おとふけ)で、農場「ケンズ・ファーム」をやっていらっしゃいますね。
規格外の野菜が捨てられちゃうっていうニュースを聞いて、もったいないなぁと思っていたころ、北海道の知り合いから、農場をやるんで名前を貸してもらえないかっていわれたんです。名前だけだと無責任な感じがしちゃうし、農業もやってみたいっていうところから始まったんです。

―― 畑を耕したりもするんですか。
やりました。1500坪。みんなで筋肉痛です(笑)。来年は1万坪になります。トラクターも運転しますよ。今度一緒に行きましょう。すごく楽しいですよ。土の匂いっていいんですよ。心がきれいになりますね(笑)。土や野菜って、すごいですよ。

―― ぜひ連れてって下さい。最後に、今後のご予定は?
いままで、「歌手」っていう太い幹があって、枝分かれしてコマーシャルだったり映画だったりお芝居だったり、いろんなお仕事をさせていただいてきたんですけど、それをさらに太くしてもっと根をぐっと張らせていきたいんです。研ナオコっていうものをもっと大きくしたいので、また、一つひとつをしっかりやっていきたい、と思っています。

―― 原点に戻る感じですね。
そう。歌も少人数で、全国のライブハウスなんかで歌っていきたいし、映画や舞台の話もきているので、それをしっかりやっていけば、また少し大きくなれるんじゃないかなって思っています。

―― そのためにも、健康でないといけませんね。体に気をつけて、がんばって下さい。今日はありがとうございました。

関連記事